旅人の散歩道
2022-12-10T07:32:58+09:00
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秋の訪れ(萩)
Excite Blog
TSMC 菊陽町進出に想う。
http://tabibitohi.exblog.jp/241674392/
2022-12-10T07:32:00+09:00
2022-12-10T07:32:58+09:00
2022-12-10T07:32:58+09:00
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未分類
昔の人参畑が拡がる田園風景の面影も残らぬ郊外の都市へと変貌しています。
20数年前、知人が菊陽町に住いの建築の為土地を求めた際、坪15万円と聞き驚いた事を思い出し現在の土地価格はどれほどかと思索します。
翻り思えば熊本市の都市圏は東へ東へと進展し、楠地区⇒武蔵地区⇒武蔵丘地区⇒合志地区と北東方面へと過疎を残しながら進展中に思えます。
菊陽町に台湾の半導体メーカー「TSMC」が進出し町が繁栄することは現状では喜ぶべき事でしょう。
然し、日本の経済発展の過去を振り返る時、日本企業は海外の労働力を求め、当時の経済後進国と呼ばれた国々へ進出しながら国内の経済的進展が見らねぬ現状に至った事に思い至ります。
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十二月八日朝。
http://tabibitohi.exblog.jp/241672803/
2022-12-08T09:41:00+09:00
2022-12-08T09:41:09+09:00
2022-12-08T09:41:09+09:00
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雑感
日本中はカタールでの日本サッカーチームの善戦の余韻に浸っています、コロナ禍も残り、ロシアによるウクライナ侵攻の余波によりエネルギー問題もありながら表面的には穏やかな朝を迎えました。
就学前の5才の私も八十六歳の最後の月に至り明ければ八十七歳を迎えます。
我々世代の生涯は波乱万丈、苦難の日々、貧困に耐えた年月、世界二位の経済を誇った歳月でした。
友も世を去り、懐かしき日々を語る同胞の影も薄れ意味も無く「キーボード」叩きながら余生を過ごし善き日々を回想し飽きれば空を雲を眺める毎日です。
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娘の後姿に母を見る。
http://tabibitohi.exblog.jp/241655173/
2022-11-17T07:13:00+09:00
2022-11-17T07:13:31+09:00
2022-11-17T07:13:31+09:00
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80個売ればあ明朝の仕入れの金が残る、残りは食の足しにする。
11月になれば道を行き交う人波も疎ら50個も売れずに路傍での商売も終わりが来る。
昭和21年、5月に母は世を去った39才の若さである。
母の最期に聞いた言葉「トシ坊、美津子と敏子と外に遊びに行って」・・家に残ったのは父・姉・生後9か月の末妹和子である。
歩き疲れて家に帰った瞬間に母が死んだと感じた。「和子は誰にも渡さないで!もしもの時は30日後まで私が連れに来るからね」姉から聞いた母の最期の言葉である。
産まれてから母乳を呑むことも叶わずミルクの代わりの重湯で過ごした末娘の事が最後まで気掛かりで有ったに違いない。
10才で別れた母の顔は思い出せない、思い出すのは後姿だけである。
今日、娘の後姿に母を見た。当時の母の齢を超えた娘の後姿に母を見る。
末妹は母の没後30日目に突然母のもとに旅立った。雨の降る夕方「もう駄目だ」と父がカンフルを打つのを止めた時、私は窓の外の電線を流れる雨水を黙って眺めていた。
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父を偲ぶ
http://tabibitohi.exblog.jp/241587591/
2022-09-22T14:00:00+09:00
2022-09-22T14:00:41+09:00
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未分類
戦争とは悲惨な行為です、今現在もウクライナの地で多くの血が流され多くの孤児が生れ、また多くの子供達が犠牲になっています。私は10才で母を亡くし、14才で父を亡くしました。
明治生まれの父親と男の子は例外はあるにしても戦後社会の様に父子が気安く話せる雰囲気は有りませんでした。
我家の父も家族で夕餉を囲む事はほゞ無く、子供が寝静まった時間に酔って帰る存在でした。
母が生きている頃は父への話は母を通じての会話です。
戦後大連での生活は悲惨なもので父も酒を呑める状況にはありませんでした。
今、振り返っても父との会話は中学一年生の頃、家の風呂釜が壊れ隣家の貰い風呂で父と一緒に入り将来の目標等を話した一度だけでした。
酒飲みの親父と思っていたけれど今思えば終戦を迎えたのが41才、死んだのが46才 己を顧みれば飲み遊んで莫迦を繰り返していた年頃、天草で過ごした晩年、夕食後に「ああ旨かったご馳走さま」と雑炊を食べ終えて言う一日の終わりの声を懐かしく思い出します。
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亡き父の日記・・
http://tabibitohi.exblog.jp/241554446/
2022-08-13T21:11:00+09:00
2022-08-13T21:11:24+09:00
2022-08-13T21:11:24+09:00
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未分類
私といえば7人姉妹に挟まれえた一人の男の子。
小学校に入る前から一日中、本を読むと言うより見ている変な子供でした。
幼稚園には幾度となく連れていかれたが、赤ん坊みたいな事は嫌だと拒否していました。
小学校は国民の義務だから行くと母との約束通りに入りました。
戦前の小学校は片仮名から始まります。
子供心に馬鹿々々しく名前は勿論、答えも漢字で提出、毎日 怒られてばかり、そうです担任は御厨先生、担任が変わる3年生まで徹底的に虐められました。
原因の一つは、テストの点数は満点ばかりなのに「通知表には良と可だけ」父が外村校長に問いただしたのも一因です。
4年生になり担任が渡辺先生、途端に級長です。
両親は通知表を期待したようですが残念ながら敗戦で終わり「通知表」は貰えずです。
父の日記へ戻ります。
昭和21年11月某日
「・・もう限界だ・食料も尽きた浪江も死んだ、子供達と死ぬ外に道は無い。」
夜の公園を歩きながら死に場所を求めた。歩き疲れた時に、「お父さん、昨日の夢で百足が出て来て正月には内地に帰れると言ったよ」英俊が言った。そうか後一月、頑張ろう・・・
この小さなン手帳に書かれた日記も天草大水害で流されて消えた・・
私の記憶は我ながら不思議です。
戦後の満州で一度、僅かな時間に出会った人「高野さん母娘」「千代君代さん」「犬養さん三姉妹」「川口さん母子達」「塚本千秋さん」雪道で落花生を騙し取った若者、名前と顔、名も知らぬ男女の顔、全てが私の脳に刻まれています。
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思い浮かぶ儘に。
http://tabibitohi.exblog.jp/241533171/
2022-07-19T20:31:00+09:00
2022-07-19T20:31:04+09:00
2022-07-19T20:31:04+09:00
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平成16年、クラス会の会場を見に行った級友、N君。K君・H君、小生、既にK・Hの両君は鬼界に入り、N君からは昨年の賀状を最後に高齢を理由に連絡しないとの連絡。家の近くのゴミ置場の惨状。
誰か一人のルール破りの結果です。
熊本大学の赤レンガの旧校舎、2枚になったが面倒なのでそのままで・・・
20年前の孫の姿、今は爺よりデカい青年です。
安倍元首相を襲撃した山上徹也の心の闇を思い、自分の若き日々の心の闇を思い浮かべる今日の日々です。
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父の兄・弟・妹が世を去った。
http://tabibitohi.exblog.jp/241517858/
2022-07-01T21:30:00+09:00
2022-07-01T21:30:38+09:00
2022-07-01T21:30:38+09:00
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然し、これほど急変するとは予想外の事である。
父の兄弟・姉妹は男6人女6人 合計12人である。
長男、明治34年(1901年)~六女大正14年(1925年)まで全て2才違いである。
私達家族が終戦後、日本内地に引揚げて来た際の生存者は父も含めて僅か4人に過ぎなかった。
次男である父が死んだのが昭和25年、46才である。
明治末期から大正期に産まれた人々の多くが多かれ少なかれ戦争の影響を受けて早世している、我が一族も生き残った叔父が80才、叔母98才、最後の叔母が97才で世を去った。
貧しい天草の地に生れ戦に翻弄された人生、安らかに眠れと祈る。
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戦争の残酷、政治家の面子では無く国民の視線で・・
http://tabibitohi.exblog.jp/241475749/
2022-06-07T20:54:00+09:00
2022-06-07T20:54:56+09:00
2022-06-07T20:54:56+09:00
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我が日本国が関与する第二次世界大戦、1939年~1945年の6年間にも及ぶ長い戦争です。
我が国民は1937年の支那事変(日中戦争)から続いた8年間の戦争の時代を暮らしたのです。
私の叔父は、この戦争に召集され1937年~1945年までの8年間を戦場でで過ごし1945年5月6日、ヴーゲンビル島で戦死しています。
職業軍人では無く、県庁に勤める農業技術職員が一枚の赤紙で召集され25才~33才までの青春時代を北支から上海まで戦いながら行軍し輸送船で南海の島々での戦いを強いられ最後に命を落とす、このような不条理が戦争です。
人間、何時か何処かで戦わざるを得ない時はあります、それが真に必要と納得できてこそ命を掛ける甲斐が存在します。
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新型コロナの終息は見えず・・・
http://tabibitohi.exblog.jp/241472376/
2022-06-04T16:47:00+09:00
2022-06-04T16:47:06+09:00
2022-06-04T16:47:06+09:00
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6月1日から妻が一週間の予定で急遽、某病院に入院中ですが面会はおろか待合室から一歩も中に入る事は禁止です。
着替えを渡すのも、洗濯物を受け取るのも決められた一時間限りです。
医学が進歩した今、の現実が信じられない思いです。
我家の敷地に立つ電柱です。46年前に我家の引き込み用に建柱した当時は引き込線だったのが今はケーブルだらけ全部情報用のグラスファイバゲーブルです、情報化社会全盛です。
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五月も終わりに近付いて・・
http://tabibitohi.exblog.jp/241465652/
2022-05-28T19:00:00+09:00
2022-05-28T19:00:46+09:00
2022-05-28T19:00:46+09:00
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未分類
遠出が出来ず、家の庭ばかり見ていると草花の小さな変化も良く見えます。
紫陽花が色付き始めると梅雨ですね。鬱陶しい梅雨ですが、建て替えたお陰で雨漏りの心配は無くなりました。
パソコン不調でメールが出来ませんが設定するのもパソコン買い換えも面倒で放置しています。
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春が来たのに!!!
http://tabibitohi.exblog.jp/241383410/
2022-03-06T16:27:00+09:00
2022-03-06T16:31:45+09:00
2022-03-06T16:27:54+09:00
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雑感
プーチン大統領が生れる前の事ですが彼の中には当時の指導者と同じ思いが埋め込まれているのでしょうか。
1945年8月9日、当時の私は小学4年生、9才でした。
テレビで隣国ポーランドへと避難する多くの人の群れ、家畜では無く人の群れです。
私達の家族は旅順在住の多くの家族、当時は1万人の日本人が居住していました。
生れ故郷の旅順を追われた私達は大連港へと行く当ても無く旅立ちました。旅順から大連までは約50Kmの距離、満州奥地の在留者は数百Km、以上の距離を無蓋列車に乗りまた,ひたすら徒歩であるき続けて港のある街へと向かいました。
母、姉(11才)私〈9才)7才・2才・生後30日の妹3人、家族6人で大連駅の近くの公園でソ連軍に占拠された勤務先からトラックを盗み食料を調達して追って来ると言う父を待つ時間の長さを今でも忘れません。
父が持ってきた食料品は、3か月後に引揚げ船が来るとの父の情報で連絡がつく職場の部下に分け与えました。
3か月の情報は消え1年半の歳月に母・末妹・叔母の三人が医者に看取られる事も無く現地で世を去りました。
当時の旧満州の邦人居留者は166万人と聞きます。
父が信じた3ヵ月で帰れるの言も根拠が無いものでは無いと後年知りました。
当時の日本政府は日本復興の為には海外抑留軍人350万人を優先帰還すべきと結論し、一般邦人はその後と結論を出したと聞きます。
春です「ウクライナ」に早く真の春が来ますように祈願します。
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春の足音
http://tabibitohi.exblog.jp/241370483/
2022-02-20T22:18:00+09:00
2022-02-20T22:18:39+09:00
2022-02-20T22:18:39+09:00
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今は昔、1947年2月に大連港を出て天草に帰り着いた天草は半袖で過ごすほど温かい土地でした。
然し、雪は降りました、地面に落ちるとすぐ融ける温かい雪が珍しく飽きずに掌で受けていました。 高校を卒業した1995年頃にも熊本市内も降り特に阿蘇の積雪が多く俄スキーヤーが多く出現しました。
立田山を散策中に見掛けた張り紙、読んでいると背後で「ガサッ」と音が・・振り返ると散策中の男性・・彼も私の驚きように驚き、思わず二人で爆笑です。
立田山、山中には多数のイノシシの堀跡があるそうです・・私の家の傍にもありました。
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新たな年を迎え感慨に耽る!!
http://tabibitohi.exblog.jp/241326524/
2022-01-05T20:56:00+09:00
2022-01-05T20:56:03+09:00
2022-01-05T20:56:03+09:00
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幼馴染は昭和20年の敗戦を機に皆無になりました。
戦後帰国した熊本での小学・中学・高校の断片的な年月の友にも親友と呼べる人々が幾人いるのでしょう。
初月に届くその学友から届く年賀状は3枚、級友の訃報を知らせる賀状、1通「今年限りで新年の挨拶を遠慮致します」2通、無理も無い級友全て85才,生きてるだけが丸儲けの世代です。
17年前のクラス会、この中で現在、生存が確認できるのが僅か3名,他界したのが7名、明日は我が身と思えども実感はありません。
写真勉強会のお誘い頂きますが、来年87才を前に運転免許返上予定、目も見えません眼鏡矯正は不可能、歩行困難になりつつあります目は読書の為に手術が必要・・今年の目標が出来ました。
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父を想う!!
http://tabibitohi.exblog.jp/241291925/
2021-11-30T22:02:00+09:00
2021-11-30T22:02:42+09:00
2021-11-30T22:02:42+09:00
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そうなんです、貴方は年老いた親と暮らし、その生き様をを見て過ごす事が出来たのです。
それでも時折、父の声を・母の笑顔を思い浮かべもう少し優しい言葉を掛けたかったと思う日もあるでしょう。
この写真は昭和13年の私の家族です。
上海へ行く前の叔母と旅順の写真館で撮った写真です。
裏には父の字で「浪江に贈る 兄より」昭和十三年九月七日」と記されています。
写真に写る家族で残るのは姉88才・私85才の二人だけです。
写真を贈られた叔母 浪江もその後旅順に渡り終戦後の昭和21年11月大連で病で世を去りました。
この一枚の写真が唯一残された父と母の写真です。
母は38才で大連ので没し父は46才で引き上げ後の天草で世を去り、両親の面影を偲ぶ時後姿しか浮かびません。
今宵、父を尾身浮かべたのは父が遺したに月替わりの手帳に書かれた昭和21年11月の記述・・「もう駄目だと思い4人の子供を連れて森の中を歩いた、夜中に無邪気について来る子供達を見てもう少し頑張ろう何とか内地に連れて帰ろう・・」・・その日の事を鮮明に思い出します、ただ本当に夜の雪道の散歩と思いながら歩いたことを・・いつも何度も・・これ以上書けないのです。
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級友の訃報
http://tabibitohi.exblog.jp/241269915/
2021-11-11T22:00:00+09:00
2021-11-11T22:14:43+09:00
2021-11-11T22:00:01+09:00
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登録していない電話番号だと警戒して取らない場合も多々ある。
お互い電話する方は相手が出るのが当然と思い、すれ違いが起きる。
級友は皆、同じ85才、訃報が届くのは珍しいことでは無いがやはり寂寞たる思いに駆られる。
彼の名は木下君、名簿順の席で私のすぐ後ろの席で3年間を過ごした。
入学時は私と同じ程度の身長150Cm弱、ボクシングを始めててモスキート級の新人戦で九州チャンピオンになった。
私と同じように3年時には170Cmheto急成長した。
我々世代は成長期の栄養不足か血管が脆いとの噂を聞くがその所為かは分からぬが、彼は40代で脳出血で倒れ半身不自由の身になりながら自分の車で運転し旅行に誘ってくれた。
この写真は10数年前の椎葉旅行の画像である、4人の誰かが他人とけんかになり誰かが止める悪友である。
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