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天草の女性(おなご)は強かった。

「強かった?今も強かよ」と異論が出るかもと思いますが、私は昭和22年から5年間の居住ですから現在の事は無知です。

父の故郷、天草に引揚げて驚いたのは、成人男性が居ない事でした。

男性は老人と子供だけです、

海沿いの地域は海運業、農家の働き盛りの男性は多くは関東・関西地方への建設現場へ特に石垣造成の職人として出稼ぎへ帰省は盆正月だけです。

従って女性の力が大きく強い存在でした。

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他家の事はさて置き今日は我が一族の一端の聞き書きを記して見ます。

現在の上天草市樋合島、旧天草郡今津村樋合に今津村立今津尋常小学校樋合分校が存在しました。

1875年(明治8年)~2010年(平成22年)まで名称を変更しながら135年の歴史を刻みました。

私の祖父はこの分校で教師生活を始めこの場所で教師生活を全うしました。

その子供、父の兄妹男6人女6人の12人は全員、この島で生れ育っています。

私達、孫4人を老いた身で育て91才まで生きた祖母は「強か天草のおなご」その典型ですが、その話はさて置き・・・

父の妹達を見れば「天草のおなごは強か!!」と思えますが特に強烈な印象を残す叔母の人生を振返ってみます。

牧野瑞江 1914920日~1946413日、行年32才。

昭和20815日、終戦時には中国上海で両替商、骨董店を営んでいました。

終戦の当日に叔母が取った行動の俊敏さには驚きます。

租界である上海では日銀券・朝鮮銀行券が併用されていましたが朝鮮銀行券が無効になると予測して全額を知人の中国人に与え食料を買い込むように指示して日本に渡る船を借り上げ全ての家具・商品と日銀券を積込み翌日早朝には天草へと出航したのです。

調べると航海距離は約840Kmです、何日の航海か知る由もありません。

私達家族が日本に帰り着いた19472月、には叔母は御この世には居なかったのです。

叔母が苦労して持ち帰った日銀券は預金封鎖で無価値になり数多な骨董品は全て散逸して無に帰しています。




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by tabibitohide | 2019-03-04 21:56 | Trackback | Comments(0)