あの日大連の街角で
2018年 05月 23日
私は小学3年生までは劣等生と分類されていた。
恐らく可愛げのない子供であったに違いない。
4歳ごろから本に親しみ愛読書はサトー・ハチローの文章だった。
玩具よりも菓子の類より本を読むことが好きで少学入学時には大抵の漢字は理解していたように思う。
読めなくても仮名の間にある漢字の意味は理解出来るものである。
残念ながら入学しても社会性は絶無で一人自分の好きに過ごしていたように思える。
最初の通知表はテストで100点ばかりで期待した親の期待に反し「乙」と「丙」であった。
父が学校に疑問を呈してから3年間は常に劣等生で過ごした。
4年次に担任が変わった日に級長に指名されたが多分、社会性も伴ってきたに違い無い。
然しその期間は8月15日終戦の日を境に終わりを告げた。
それから1年を過ぎた移住した大連の街角で突然、声を掛けられた「〇〇君じやないか?」
渡辺先生だ!!荷車を引いた仕事姿である。
「もうすぐ日本に帰れるぞ、日本で会おう」と紙切れに故郷の住所を書いて渡してくれた。
それが最後である、当時の大連の日本人は約30万人、奇跡の再会だった。その後の半年間、飢餓と病の狭間を過ごす間に住所を記した紙も失せ、再会の夢も失せたただ福島県とだけ覚えている。
然し、記憶にはその場所も渡辺先生の容姿も鮮明に記憶に刻まれている。
私が記録より記憶を重視する由縁は此処にある。
by tabibitohide
| 2018-05-23 21:32
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