満蒙開拓青少年義勇軍
2010年 08月 25日
何気なく見ていたTVで満蒙開拓青少年義勇軍の悲惨な模様が放映されていた。
私の叔父も満蒙開拓青少年義勇軍に参加し現地で病を得て入院先のハルピンの病院で死去した。
昭和17年7月、享年19才、肺炎ででの病死である。
当時、叔父の危篤のほうに、住んでいた旅順から父がハルピンまで急遽、旅立った。
到着した夜「何か食べたいか」と問いかける父に「みかんば食いたか・・」との返事・・
ハルピンの夜の街、蜜柑が撃ってあるはずも無く、白桃の缶詰を買い求め口に入れ与えると、
「あんさん、やっぱ 蜜柑は美味かな・・・」既に味覚も無く、にっこり笑って事切れたたという。
現在の中学三年、高校一年生程度の少年達を満蒙開拓の美名のもと応募と言う形を取りながら現実には強制に近い形で異国の地に送り込み銃を持たせ関東軍の予備的な軍務を与え終戦後は放置した国策を立案した責任者は誰であったのだろう?
忘れてはならない国、政治家、軍部の愚行を。
私の叔父も満蒙開拓青少年義勇軍に参加し現地で病を得て入院先のハルピンの病院で死去した。
昭和17年7月、享年19才、肺炎ででの病死である。
当時、叔父の危篤のほうに、住んでいた旅順から父がハルピンまで急遽、旅立った。
到着した夜「何か食べたいか」と問いかける父に「みかんば食いたか・・」との返事・・
ハルピンの夜の街、蜜柑が撃ってあるはずも無く、白桃の缶詰を買い求め口に入れ与えると、
「あんさん、やっぱ 蜜柑は美味かな・・・」既に味覚も無く、にっこり笑って事切れたたという。
現在の中学三年、高校一年生程度の少年達を満蒙開拓の美名のもと応募と言う形を取りながら現実には強制に近い形で異国の地に送り込み銃を持たせ関東軍の予備的な軍務を与え終戦後は放置した国策を立案した責任者は誰であったのだろう?
忘れてはならない国、政治家、軍部の愚行を。
by tabibitohide
| 2010-08-25 22:40
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