北半球にようやく雪解けて春が訪れました。
然し、ロシアによるウクライナ侵略の惨状を映像で観ながら、77年前の旧満州へのソ連軍の突然の侵攻での大惨事へと引き戻されました。
プーチン大統領が生れる前の事ですが彼の中には当時の指導者と同じ思いが埋め込まれているのでしょうか。
1945年8月9日、当時の私は小学4年生、9才でした。
テレビで隣国ポーランドへと避難する多くの人の群れ、家畜では無く人の群れです。
私達の家族は旅順在住の多くの家族、当時は1万人の日本人が居住していました。
生れ故郷の旅順を追われた私達は大連港へと行く当ても無く旅立ちました。旅順から大連までは約50Kmの距離、満州奥地の在留者は数百Km、以上の距離を無蓋列車に乗りまた,ひたすら徒歩であるき続けて港のある街へと向かいました。
母、姉(11才)私〈9才)7才・2才・生後30日の妹3人、家族6人で大連駅の近くの公園でソ連軍に占拠された勤務先からトラックを盗み食料を調達して追って来ると言う父を待つ時間の長さを今でも忘れません。
父が持ってきた食料品は、3か月後に引揚げ船が来るとの父の情報で連絡がつく職場の部下に分け与えました。
3か月の情報は消え1年半の歳月に母・末妹・叔母の三人が医者に看取られる事も無く現地で世を去りました。
当時の旧満州の邦人居留者は166万人と聞きます。
父が信じた3ヵ月で帰れるの言も根拠が無いものでは無いと後年知りました。
当時の日本政府は日本復興の為には海外抑留軍人350万人を優先帰還すべきと結論し、一般邦人はその後と結論を出したと聞きます。
春です「ウクライナ」に早く真の春が来ますように祈願します。
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by tabibitohide
| 2022-03-06 16:27
| 雑感
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