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コロナ禍を避けた訳でも無いが外出を気後れする昨今です。
菊池市に住む長女と落ち合う妻と菊陽町のゆめタウンへ出掛け4階駐車場から街並を眺め増した。
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昔の人参畑が拡がる田園風景の面影も残らぬ郊外の都市へと変貌しています。
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20数年前、知人が菊陽町に住いの建築の為土地を求めた際、坪15万円と聞き驚いた事を思い出し現在の土地価格はどれほどかと思索します。
翻り思えば熊本市の都市圏は東へ東へと進展し、楠地区⇒武蔵地区⇒武蔵丘地区⇒合志地区と北東方面へと過疎を残しながら進展中に思えます。
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菊陽町に台湾の半導体メーカー「TSMC」が進出し町が繁栄することは現状では喜ぶべき事でしょう。
然し、日本の経済発展の過去を振り返る時、日本企業は海外の労働力を求め、当時の経済後進国と呼ばれた国々へ進出しながら国内の経済的進展が見らねぬ現状に至った事に思い至ります。




# by tabibitohide | 2022-12-10 07:32 | Trackback | Comments(0)

十二月八日朝。

千九百四十一年十二月八日未明、日本海軍による真珠湾攻撃で太平洋戦争は始まりました。
81年後の今朝、日本も我が近隣も初冬の静けさの中にあります。
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日本中はカタールでの日本サッカーチームの善戦の余韻に浸っています、コロナ禍も残り、ロシアによるウクライナ侵攻の余波によりエネルギー問題もありながら表面的には穏やかな朝を迎えました。
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就学前の5才の私も八十六歳の最後の月に至り明ければ八十七歳を迎えます。
我々世代の生涯は波乱万丈、苦難の日々、貧困に耐えた年月、世界二位の経済を誇った歳月でした。
友も世を去り、懐かしき日々を語る同胞の影も薄れ意味も無く「キーボード」叩きながら余生を過ごし善き日々を回想し飽きれば空を雲を眺める毎日です。




# by tabibitohide | 2022-12-08 09:41 | 雑感 | Trackback | Comments(0)

娘の後姿に母を見る。

11月、師走が近付く度に大連の雪に覆われた道路を思い出す。
生きる為に幾何かの稼ぎを求め路傍に立ち函に並べた100個の饅頭を売る。
80個売ればあ明朝の仕入れの金が残る、残りは食の足しにする。
11月になれば道を行き交う人波も疎ら50個も売れずに路傍での商売も終わりが来る。
昭和21年、5月に母は世を去った39才の若さである。
母の最期に聞いた言葉「トシ坊、美津子と敏子と外に遊びに行って」・・家に残ったのは父・姉・生後9か月の末妹和子である。
歩き疲れて家に帰った瞬間に母が死んだと感じた。「和子は誰にも渡さないで!もしもの時は30日後まで私が連れに来るからね」姉から聞いた母の最期の言葉である。
産まれてから母乳を呑むことも叶わずミルクの代わりの重湯で過ごした末娘の事が最後まで気掛かりで有ったに違いない。
10才で別れた母の顔は思い出せない、思い出すのは後姿だけである。
今日、娘の後姿に母を見た。当時の母の齢を超えた娘の後姿に母を見る。
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末妹は母の没後30日目に突然母のもとに旅立った。雨の降る夕方「もう駄目だ」と父がカンフルを打つのを止めた時、私は窓の外の電線を流れる雨水を黙って眺めていた。
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# by tabibitohide | 2022-11-17 07:13 | Trackback | Comments(0)

父を偲ぶ

父が他界して72年の歳月が流れました。
我々の世代では父親の顔も知らぬ多数の方々がいます。
戦争とは悲惨な行為です、今現在もウクライナの地で多くの血が流され多くの孤児が生れ、また多くの子供達が犠牲になっています。
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私は10才で母を亡くし、14才で父を亡くしました。
明治生まれの父親と男の子は例外はあるにしても戦後社会の様に父子が気安く話せる雰囲気は有りませんでした。
我家の父も家族で夕餉を囲む事はほゞ無く、子供が寝静まった時間に酔って帰る存在でした。
母が生きている頃は父への話は母を通じての会話です。
戦後大連での生活は悲惨なもので父も酒を呑める状況にはありませんでした。
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今、振り返っても父との会話は中学一年生の頃、家の風呂釜が壊れ隣家の貰い風呂で父と一緒に入り将来の目標等を話した一度だけでした。
酒飲みの親父と思っていたけれど今思えば終戦を迎えたのが41才、死んだのが46才 己を顧みれば飲み遊んで莫迦を繰り返していた年頃、天草で過ごした晩年、夕食後に「ああ旨かったご馳走さま」と雑炊を食べ終えて言う一日の終わりの声を懐かしく思い出します。


# by tabibitohide | 2022-09-22 14:00 | Trackback | Comments(0)

亡き父の日記・・

私の父親は、スポーツ・武道全般に優れ(父親を褒めるのには恥ずかしさもあります)
20代の頃にはオリンピックを目指して研鑽を重ねていたようです。
私といえば7人姉妹に挟まれえた一人の男の子。
小学校に入る前から一日中、本を読むと言うより見ている変な子供でした。
幼稚園には幾度となく連れていかれたが、赤ん坊みたいな事は嫌だと拒否していました。
小学校は国民の義務だから行くと母との約束通りに入りました。
戦前の小学校は片仮名から始まります。
子供心に馬鹿々々しく名前は勿論、答えも漢字で提出、毎日 怒られてばかり、そうです担任は御厨先生、担任が変わる3年生まで徹底的に虐められました。
原因の一つは、テストの点数は満点ばかりなのに「通知表には良と可だけ」父が外村校長に問いただしたのも一因です。
4年生になり担任が渡辺先生、途端に級長です。
両親は通知表を期待したようですが残念ながら敗戦で終わり「通知表」は貰えずです。
父の日記へ戻ります。
昭和21年11月某日
「・・もう限界だ・食料も尽きた浪江も死んだ、子供達と死ぬ外に道は無い。」
夜の公園を歩きながら死に場所を求めた。歩き疲れた時に、「お父さん、昨日の夢で百足が出て来て正月には内地に帰れると言ったよ」英俊が言った。そうか後一月、頑張ろう・・・
この小さなン手帳に書かれた日記も天草大水害で流されて消えた・・
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私の記憶は我ながら不思議です。
戦後の満州で一度、僅かな時間に出会った人「高野さん母娘」「千代君代さん」「犬養さん三姉妹」「川口さん母子達」「塚本千秋さん」雪道で落花生を騙し取った若者、名前と顔、名も知らぬ男女の顔、全てが私の脳に刻まれています。



# by tabibitohide | 2022-08-13 21:11 | Trackback | Comments(0)

秋の訪れ(萩)


by tabibitohide